優しい人と都合のいい人と
優しさについて考えてみた。
学生時代に恋の相談を何度か受けたことがあります。
「優しい」と検索すると【所作や様子、刺激がない】など見た感じだったり【思いやりとか、情や性質】の事を言っていたりとその人の様子も「優しい」の判断材料なんだなあ、と改めて意外でしたし、初めて知りました。
「優しい」は便利な言葉の中では人気ワードではないかと思います。上記したように刺激がないのも優しさなので刺激を求める若いころは退屈な相手を優しいと表現していたのかもしれないと思いました。相手に対して便利に使う「優しい」という言葉以外の「優しい」について考えてみます。
若いころに恋愛相談された際に相手のどこがいいんだ?と質問すると「優しい」と返答されました。「例えば?」と突っ込むと、あの時、ああしてくれた。などと言うわけです。優しい言葉をかけてくれた。わがままを許してくれる、だそうです。
はて?そういう人って世間で「優しい」って言うのか?それって自分にとって都合がよいだけでは?
相手に情けをかけることが「優しさ」だとすると友達の恋人は「優しい」のですね。私が人に情けを掛けるときは自己満足したいときです。後々後悔したくないときです。コンビニでレジの人に「ありがとう」というのは私がビビりで世の中が平和になって欲しいからですし、喜びそうな言葉を友達にかけるときも「いい人」風を演じているだけです。そういうことを続けているとどうなるかというと利用されやすくなります。「いい人」に見られたいという下心を持っているとソコを利用しようとするのです。世間は馬鹿でもないしそんなやわではありません。高校生の頃の話です。掃除時間、一人で箒をしていると終わった頃に友達がぞろぞろ戻ってきて「ごめーん」が当たり前でした。言い返していいたし、散々ディスったのでイジメではありません。でも彼女たちの言い分は「いい子ぶってんだからラッキーじゃん、むしろ」です。自分たちは悪く思われて私が良い子ちゃんアピールできるのでいいじゃん、と。掃除に関してはいい子ぶるのではなく、本当に掃除しろよと思っていたのですが、どこかに潜んでいる私の「いい人に見られたい」欲求を世間は黙って見過ごさないのでしょうね。結果、誰も困ってないじゃん、と。私の「掃除しろよ」という思い以外は言い当てている。
自分に都合のいい人間って手放したくない。私は陰謀論が好きです。私の好きな藤井厳喜先生は陰謀があったとしても全て陰謀のせいにすれば負けだ、みたいな事をおっしゃっています。陰謀論を私的に言葉にすると世の中を牛耳る存在がこの世を動かしている、です。このロジックにハマると思考停止になりますが便利なんです。都合がいいです、陰謀論は。都合がいいものは手放せない。現実逃避するのにもってこいです。都合のいい人間って、誰もその人自身と付き合っているわけではないのカモです。現実逃避する道具です。ドラえもんです。私とお茶したいという同僚は疲れた時に愚痴を聞いて慰めて欲しいのでしょうし、耳心地の良い言葉を待っているのでしょう。でもこれは私が優しいわけではありません。つまり、どっちのどっち、ということです。ウィンウィン、です。
★「優しさ」とは関係ないですが強さの中に優しさがあるかもな~というフワっとした紹介です❤
じゃあ、「優しい」ってなんだよ、って戻りますが、「愛ってなんだよ」と同じくらい難しい。
全ての事は昔、「ひとつ屋根の下」のあんちゃんのセリフ「そこに愛はあるのか」でしょうね。
同じ現象でも「そこに愛があるのか」でその現象は変わってきます。そして「そこに愛」があったとしても受け取る側が心を閉ざしていたり傷ついた過去を持っていたりしても「愛」を感じきれずその現象は嫌な現象になるのでしょう。愛があるゆえにあなたを守る為に注意を促したとしても「説教臭い」「いちいち気にしすぎる」と受け取られてしまえば注意を促す必要性はなくなります。かと言って「知っていたら教えるのが当たり前」と言われるカモですが笑。